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長篠の戦いがあった日。
長篠の戦いに至る経緯は、そもそもは徳川家康の家臣・大賀弥四郎が武田勝頼に寝返り、岡崎の徳川信康を殺害して城を乗っ取る話を持ちかけられたことからはじまる。 勝頼はこの話に乗り一万五千の軍を率いて出陣。三河・作手まで進出したが、大賀の企みは露見して処刑されていた。 無駄足を踏んだ勝頼は、奥平信昌が五百の兵で籠もる長篠城攻撃に方針変更。総攻撃を行い、長篠城は本丸を残して兵糧倉まで武田軍に占領・包囲された。 このとき城を抜け出し、徳川家康に後詰の援軍を仰ぐ使者として向かったのが鳥居強右衛門である。 家康の要請で岡崎に救援におもむいていた織田信長と家康は、長篠城救援のために出陣。慎重に行動して長篠城にほど近い設楽原に陣を構え、そして馬防柵を打ち立てた。 これを見た勝頼は宿将たちの反対意見を退け、織田徳川連合軍に決戦を挑む命令を下した。 五月二十一日の朝、武田軍の山県・小山田・小幡・内藤・原の部隊が得意の騎馬集団で突っ込み、織田・徳川軍の三千挺の鉄砲の一斉射撃で打ち倒され、主な武将が討死する。 この機に織田・徳川軍が追撃に移り、馬場信春が退路を守って討死する中、勝頼はわずか数人の従者に守られ甲斐に退却した。 長篠の戦いに関する本はこちら □戦史ドキュメント 長篠の戦い □徹底検証 長篠・設楽原の戦い □長篠の戦い PR |
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