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【2024/04/19 03:08 】 |
幸手城
一色稲荷(幸手城)



場所:埼玉県幸手市中1-15-31

幸手城跡は現在の東武線幸手駅付近であるといわれる。
古河公方・足利晴氏、義氏に従った一色直朝が館をかまえた場所といわれる田宮庄(幸手庄)。写真はそこから巽の方向に祀られている陣屋稲荷(別名一色稲荷)で、一色氏の守り神として祀られた氏神といわれており、幸手駅から数百メートル先にある。
直朝は画家や歌人としてもすぐれたていた教養人であり、画業には国指定重要文化財となっている「伝貞巌和尚像」などがある。また歌人としては自撰和歌集「桂林集」や「桂林集注」がある。また随筆集「月庵酔醒記」がある。
のちに一色氏は北条氏の配下となったが、天正十八年(1590年)豊臣秀吉によって北条氏が滅ぼされると、直朝は下総国大淵寺に隠居し月庵と号した。そして子の義直が徳川家康に仕え、幸手庄のうち5160石余の領地を与えられた。
まわりは市街地化しており、昔をしのぶ土塁跡などは見つけることはできない。

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【2006/05/14 20:05 】 | 埼玉県東部の史跡 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
小島庄右衛門正重之墓
小島庄右衛門正重之墓
埼玉県指定旧跡 昭和三十六年九月一日指定



場所:春日部市西宝珠花327

関東郡代の伊奈千十郎忠治の親戚にあたる小島庄右衛門正重(?~1668年)は、三河出身ではじめ忠治の下にいたが、のちに下総・葛飾郡庄内領の代官となった。
寛永十二年から十八年に忠治と共に、関宿から野田に至る江戸川を開削して領内の新田開発や治水、そして舟運による江戸との物資運搬に尽くした。
晩年は領内吉妻に自らが開基となった小流寺を建立して過ごしたと伝えられる。
左が正重の墓で右は正重の実弟の墓。

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【2006/05/07 13:37 】 | 埼玉県東部の史跡 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
鈴木雅楽助館/伝承服部氏屋敷
鈴木雅楽助館跡



場所:埼玉県南埼玉郡宮代町字東


岩槻城主・太田氏の祈願所とされ、江戸初期に徳川家康から寺領50石を寄進された西光院の寺域は、本堂・阿弥陀堂・五社神社・東照宮・東光院・大蔵坊・不動坊などがあり、要塞化した寺院であったといわれる。
付近の中寺遺跡での平成10年度と14年度の調査の結果、掘立柱建物跡や井戸、溝などが検出され、百間の武将鈴木雅楽助の館と関係があると推定されている。
しかし、その名残はもはやなくなっている。


伝承服部氏屋敷跡



場所:埼玉県南埼玉郡宮代町西原


関東に入国した徳川家康は、旗本服部与十郎政季に太田荘百間郷3000石を与えた。服部氏は西原地区に陣屋を構え、元和五年に服部権太夫政信が静岡県今切に移封するまでこの地を治めている。
写真の場所では平成12年~平成15年度にかけて5回に渡り発掘調査が行われ、遺跡が多数発見されたことから、百間郷の領主の城館であると推定されている。

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【2006/05/05 21:27 】 | 埼玉県東部の史跡 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
関口氏屋敷



場所:埼玉県北葛飾郡杉戸町深輪387

関口氏は深輪周辺を治めた豪族。
現在でも当地周辺には関口氏がたくさん住んでおり、屋敷にも関口氏が居住されている。

先祖は駿河今川家の家臣で今川氏庶流の関口氏といわれている。しかし桶狭間で当主が討死し、去就を疑われた跡継ぎも自刃してから没落。
今川氏滅亡後は徳川家に仕え旗本として存続し、その時関東に移ってきてこの地に居住するようになったという。
ちなみに徳川家康の正室・築山殿の実家が関口氏である。

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【2006/05/04 11:52 】 | 埼玉県東部の史跡 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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