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【2017/10/19 14:21 】 |
天正十四年(1586年)十二月十二日は
戸次川の戦いで長宗我部信親が討死した日。

信親は幼少期から智勇に優れ、人望厚く、将来を嘱望されていたため、父の長宗我部元親に溺愛されていたという。

戸次川の戦いとは、豊臣秀吉の九州征伐の先遣隊として派遣された仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、大友義統、十河存保らと島津義弘の弟・島津家久率いる島津勢と間で行なわれた戦いをいう。

耳川の戦いで敗れて急速に衰退した大友宗麟の懇願によって九州征伐を決めた秀吉は、徳川家康の臣従が定まらなかったことにより、まずは四国勢を派遣したわけである。

得意の「釣り野伏」と呼ばれる戦法で豊後・戸次川で待ち受けた島津軍に対して、秀吉の威を借りた軍監・仙石秀久が長宗我部らの反対を押し切り、ほとんど独断的に無謀な渡河作戦を決行。

緒戦は優勢だった秀久軍は深入りしすぎて伏兵に遭い壊滅。第二陣の長宗我部・十河軍が救援におもむいたため助かり遁走した。
しかし長宗我部・十河軍は島津軍に包囲され信親・存保は討死し、元親は落胆のあまり自分も死のうとしたが、家臣の諫で戦わず敗走した。

無謀な作戦をたてながら真っ先に逃亡した秀久は領国に潜んでいたところを引っ立てられ、「三国一の臆病者」と罵られて高野山に追放されたという。
また、十河氏は改易。長宗我部元親は溺愛していた信親の死に狂乱。家督を四男・盛親に譲ることを反対した重臣を誅殺し、二男の親和、三男の親忠を幽閉するなど、元親は暴君へと変貌していったという。

センゴクの主人公と史実は違うのだ。

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