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【2017/09/27 01:26 】 |
文禄四年(1595年)七月八日は
豊臣秀次が自刃した日。

関白・秀次は豊臣秀吉の姉・ともの子。
子がなった秀吉の後継者として関白を譲られた。
しかし、その後に秀頼が生まれたため、秀吉からの圧力により高野山へ追放。
直後に自刃となった。

秀次は”殺生関白”と言われ罪のない人々を殺したり、秀吉に対して謀反を企てたといわれている。
一方で、武力と学識にすぐれ、近江八幡発展の足がかりとなった治世を行ったともいわれる。

どちらが本当の秀次なのか、今となってはわからない。
秀次を題材とした小説で想像しよう。
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【2005/07/08 23:58 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(2) | トラックバック(0)
<<隆慶一郎著「死ぬことと見つけたり」UPしました | ホーム | 天正十八年(1590年)七月五日は>>
有り難いご意見
豊臣秀次
彼は、秀吉を”主人公”にした小説では”愚将”として描かれる事が多いようですけど、伊達政宗を”主人公”とする小説では、政宗のかつての領地で、”配置換え”によって蒲生氏郷の領地になった際、その領民が蒲生に不満を抱いて起こした”一騎”に政宗が加担したとして、秀吉からその”諮問”を受けていた際に、政宗をかばった”恩人”として、”器量のある武将”として描かれています。でも、果たしてどちらが”本当”の秀次の姿なのでしょう? まぁ、おそらく”太閤びいき”の小説では、どうしても秀吉を”正当化”したい余り秀次を”愚将”に仕立て上げた節は否めない気がします。

ただ、いずれにしても、彼の死後、石田三成の指揮の下に秀次の一族全てが”処罰”された件は本当にむごすぎます。例えこれが秀吉の”命”だとしても、この一件によって石田三成が一気に”悪者”になったのは間違いないはずで、それによって伊達政宗、最上義明らの”東北”の武将が”関が原の戦い”の際に”徳川方”についた訳ですからね。
【2005/07/10 06:43】| URL | スーパーpsy野神 #58b55ea208 [ 編集 ]


確かにむごい
秀次一族の処刑は確かにむごいです。秀吉の晩年は狂気としか思えませんね。
【2005/07/10 12:37】| URL | 上総介 #58b55ea208 [ 編集 ]


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