× [PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。 |
島原の乱で討死した板倉内膳正重昌の辞世
あら玉の 歳の始めに 散る花の 名のみ残らば 先がけと知れ 重昌は京都所司代で有名な板倉勝重の三男です。 父の遺領を継いだあと、島原の乱で徳川家光から追討の総大将を任じられました。 しかし自分より身代の大きい大名ばかりの追討軍を統率できず、乱は長引きます。 第二の追討使・松平信綱の派遣を知った彼は、一揆方の籠もる原城に総攻撃。 自らも槍を携え突入して、銃弾を受けて討死しました。 幕府方の死傷者は五千三百にものぼり、一揆方は百にも満たない惨敗でした。 辞世にもあるとおり、面子を失った彼が名を残すために討死覚悟での突入だったのでしょう。 PR |
|
トラックバックURL
|
忍者ブログ [PR] |