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【2024/03/28 18:40 】 |
清水宗治の辞世
備中・高松城主・清水宗治の辞世


 浮世をば 今こそわたれ 武士(もののふ)の
                  名を高松の 苔に残して



清水宗治が羽柴秀吉軍に居城を囲まれ、天守閣が水没するほどの水攻めにあって、城兵を助けるために降伏し、自刃したのは天正十年六月四日。
本能寺の変があった二日後であった。

秀吉の備中攻めが行われる前、毛利家の小早川隆景が備中国境に城をもつ七人の城主を備後・三原城に集め、決意を固めさせた。
半独立して毛利家の傘下に入っていた彼らに隆景は
「織田からいずれ味方に引き入れようと諜略があるだろう。もし織田方につこうとするならば、当家としてはかまわない。それへつかれよ」
といった。
律義者ぞろいの彼らは
「情けなきお言葉。我ら小城ながら防ぎとめ、一命を毛利家にささげること言うに及ばず。勝利のあかつきにはふたたび三島城に集まり、勝利の酒肴を頂戴したいものでござる」
と口々にいった。
しかし宗治は、
「拙者はそうは思わぬ。秀吉は山陽道にあふれるような人数で攻めてくるだろう。拙者の小城で防ぎきることは不可能であり、ついに防ぎきれぬときには城を枕に討死し、多年の御恩に報いるつもりである」
といった。
隆景はその言葉に感動し、
「もしそのときには御一子を取立て、百世の後までお守りつかまつる」
といったという。
事実、毛利家ではこの約束を守り、清水家を幕末までの三百数十年間、一門待遇とした。

「中国者の律義」の典型的な武将であった。
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【2005/12/04 18:44 】 | 武将の辞世 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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