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【2024/11/22 03:32 】 |
天正十一年(1583年)四月二十一日は
賤ヶ岳の戦いがあった日


織田信長が没し、明智光秀を討った羽柴秀吉が、織田家の重臣・柴田勝家と戦って勝家を敗走させた戦いだ。
この勝利によって、秀吉は天下人としての地位をほぼ確立したといえる。

勝家方は前田利家・佐久間盛政など3万を率いて近江・柳ヶ瀬に着陣。一方の秀吉は5万の軍勢を木ノ本に布陣した。
そのままこう着状態が続き、一部の軍勢を率いて織田信孝の挙兵を鎮圧に向かった秀吉の行動によって均衡が崩れる。

佐久間盛政が突出し中川清秀を討ち取って大岩山砦を占領。そのまま対陣していたところに、秀吉の軍勢が大返しして殺到。盛政隊と激戦を繰り広げる中、戦線に加わらなかった前田利家が退却。そのため盛政隊は壊滅し、勝家軍は総崩れとなって北ノ庄に退却した。

この戦いでのキーマンは佐久間盛政。
この戦いで捕らえられた盛政は筋金入りの秀吉嫌いだった。当然殺されると思われていたが、秀吉は「助けたい」と言って諸将を驚かせたという。
また命を助けるだけでなく、
「九州を平定した場合に肥後一国を与えたい」
と秀吉は言い、蜂須賀家政に説得させたが、
「自分は勝家の家臣であり、勝家が滅んだ以上、自分ひとりが生きていても甲斐がない。天下をくれてやると言われても断る。肥後をやるというが、もしかりにそのようなことになったら肥後を根城に九州を平らげ、上方に攻め上り、秀吉を討って憂さを晴らそうとするであろう。いずれにせよ双方にとって無用のことだ」
とことわれた。秀吉はあきらめ
「されば切腹させよ」
と命じた。普通なら斬首が慣例であり、切腹という措置は異例の厚遇だったようだ。
しかしこれに対しても盛政は蹴り、
「自分には斬首こそ望ましい。願わくばこの身に縄をかけ、檻車に乗せ、天下第一の罪人として京を引き回してもらいたい。それが望みである」
といった。
秀吉は承知せざるをえなかった。
引き回しのが行われる日、檻車が一条の辻を出発するとき、盛政は刑士に
「縛り方が足りぬ。高手も小手もすきまなく縛り上げよ」
と命じたという。
徹底した秀吉嫌いだったのがこのエピソードからもわかる。

佐久間盛政が主人公の本

関連リンク→上総介 戦国書店
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【2006/04/21 20:03 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
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