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【2017/09/27 01:26 】 |
永禄五年(1562年)七月二十四日は
加藤清正が生まれた日。
しかも、清正が亡くなった日も慶長十六年(1611年)七月二十四日であった。

誕生日に亡くなったという珍しい人物だ。

彼を題材とした小説では、若かりしころの猪武者的な描かれ方と晩年に豊臣家の存続を願い、徳川幕府と良好な関係を築きつつ、毅然と振舞った智将という描かれ方がある。

前者は石田三成を主人公として、その対極的な描かれ方。そして後者は豊臣秀頼の母・淀殿を描くときに、豊臣恩顧の大名の代表として描かれる。

一生を通しての清正を描く場合、若年から晩年へ向けて成長していく様をスムーズに描くのが著者の見せ所だろう。
皆さんは、どんな清正がお好みですか?

加藤清正が登場する本の紹介
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【2005/06/24 22:10 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(2) | トラックバック(0)
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有り難いご意見
加藤清正の素顔
清正は、福島正則らと同じく豊臣配下の”武功派”の武将として、石田三成や”官僚派”の武将とは”対極”の立場にいるような”イメージ”で描かれる事が多いのは確かです。でも、その”実態”は戦による”戦功”以外でも、築城などの”建築”の名手であり、また”政治的手腕”も実はあったとか。そこら辺が福島正則のような本当に”戦”のみで功績を上げた”田舎侍”的な武将とは少し違うのでしょう。

そのため”徳川幕府”に対する”配慮”の仕方も、清正と正則では大違い! 江戸城の修繕工事等にもどの大名にも先駆けて貢献するなどの”誠意”を常に見せていた清正に対して、正則はそこまで気が回らなかったばかりか、今度は自分の城である広島城の”修理”を幕府に断らずに行った事で”改易処分”を喰らっているわKですからね。まぁ、これに関しては”裏”がある、という話もありますが・・・。

清正が、”関が原の合戦”に直接参加しなかったのも、”対立関係”にあるとはいえ同じ”豊臣恩顧”の武将である三成らとの直接的な”戦”を避けたかったからではないでしょうか。それに対して、直接”関が原”に参加した正則は家康の”口車”にまんまと乗せられての”参戦”ですからね。ここら辺が、彼らの後の”名声”の差につながるのではないでしょうか。
【2005/06/25 12:59】| URL | スーパーpsy野神 #58b55ea208 [ 編集 ]


清正の性格
確かに清正の幕府に対する配慮はさすがのところがありますね。
いまだに名声が高い清正は民政についても長けていたのでしょう。
ただ、すべて自分でやらねばすまない性格で、大大名になっても独裁制だったようです。
【2005/06/25 14:39】| URL | 上総介 #58b55ea208 [ 編集 ]


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