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志摩の海賊・九鬼嘉隆の生涯を史実を元にした小説&著者の解説です。海賊という既成観念を打破する嘉隆像を描いています。嘉隆中心の展開なので、時代背景を理解している方にはお勧めです。 2007.3.1読了 クリックお願いします。 → 関連リンク→上総介 戦国書店 PR |
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こんにちは、お久しぶりです。
今回は九鬼嘉隆ですか、これはまたマニアックな武将ですね。 私が九鬼と聞いてまず思い浮かべるのが、毛利船団を撃ち破った鉄甲船です。 この船は信長の先進性を表すネタの一つとして語られることが多いですが、一方、信長は「燃えない船を造れ!」と命じたのみで、鉄板を用いたのは嘉隆だという話も漏れ聞きます。果たして真相はどうなんでしょうね。 そして、私が疑問に思っているのが、家康の危難の一つに数えられる「伊賀越え」の際、なぜ堺から海路の紀伊半島迂回策を採らなかったかということです。 それほど当時の操船技術が未熟だったのか、海賊などの襲来を恐れたのか。 この件で九鬼一族がからんでいるのでしょうか? ではまた、長文で失礼しました。
【2007/03/06 12:58】| | 白天目 #9a895ffb43 [ 編集 ]
Re:伊勢浦の大船
白天目さん、こんばんは。
九鬼嘉隆の海戦歴ってあまりないみたいですね。 海賊といっても、若いときに志摩を追われて滝川一益の配下に入ったからみたいです。 でも、それだからこそ、鉄甲船の発想が出来たのかもしれませんね。 伊賀越えのとき、嘉隆は織田信雄の配下にいたはずです。 ということは、家康にとって敵ではないはずですが、なぜなのでしょう? 結局は茶屋四郎次郎や服部半蔵の意向が強かったのかもしれません。 |
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