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蜂須賀小六の弟分であった前野将右衛門長康の辞世。
限りある 身にぞあづさの 弓張りて とどけまゐらす 前の山々 将右衛門は蜂須賀小六と共に木曽川の川筋で徒党を組んでいた集団で、主人を持たず、戦となれば勝つ見込みがある方について恩賞をもらっていた者たちのひとり。 普段は多くの馬を養って、親しかった油商人・生駒八右衛門の油や灰を運搬する仕事をしていたという。 八右衛門は信長の側室・吉乃の兄である。 前野家といえば、昭和34年の伊勢湾台風により土蔵が壊れて、子孫が保存していた文書が発見され、これを12年かけて整理・翻訳し出版された「武功夜話」が有名。 この古文書によって信長・秀吉の前半生が明らかとなり、現在の戦国本のベースとなっているのである。 PR |
大内義隆に謀反したその重臣・陶晴賢の辞世。
なにを惜しみ なにを恨まん もとよりも この有様の さだまれる身に そして晴賢に担がれた大友宗麟の異母弟・大内義長の辞世。 誘ふとて なにか恨みん 時きては 嵐のほかに 花もこそ散れ 最近毛利関係の武将本(吉川元春や村上武吉)を読んでいたので、それらにちょい役で出てくる二人の辞世を紹介します。 晴賢は毛利元就の策略にはまり、厳島に大軍を入れて奇襲にあい討死しました。 義長はその後に元就に攻められ、且山城に籠城。和議・助命を信じて城を出たところで自刃を迫られました。 二人とも無念だったでしょう。 |
関ケ原の戦いで討死した平塚為広の辞世です。
名の為に 棄つる命は 惜しからじ 終にはとまらぬ 浮世と思へば 関ケ原直前に大名となり、大谷吉継の配下で戦った硬骨の士・平塚為広は、吉継の側で裏切者・小早川秀秋一万五千の軍を寡兵で防ぎ、一時は圧し戻すほどの奮戦をしましたが、脇坂・小川・朽木・赤座の裏切りにより崩れ去ります。 為広はこれまでと悟り、自ら討ち取った者の首級にこの辞世をそえて大谷吉継の陣へ送ったといわれています。 潔く、感動的な人物ですね。 |
賤ヶ岳の戦いで敗戦後、北ノ庄城で自刃した柴田勝家と妻・お市の方の辞世
柴田勝家 夏の夜の 夢路はかなき 跡の名を 雲井にあげよ 山ほととぎす お市の方 さらぬだに うちぬる程も 夏の夜の 別れを誘う ほととぎすかな 北ノ庄城では、羽柴秀吉軍の包囲の中、最後の酒宴を催します。 そして翌日にお市の方と共に天守閣に登り、火を放って自刃しました。 二人の辞世の句は、勝家の句にお市の方がこたえるかたちのもの。 勝家は「後学に致せ」と左脇に短刀を差し、右にひきつけ、更にへその下から胸の下までえぐり、十字に腹を切ったといわれます。 |
島原の乱で討死した板倉内膳正重昌の辞世
あら玉の 歳の始めに 散る花の 名のみ残らば 先がけと知れ 重昌は京都所司代で有名な板倉勝重の三男です。 父の遺領を継いだあと、島原の乱で徳川家光から追討の総大将を任じられました。 しかし自分より身代の大きい大名ばかりの追討軍を統率できず、乱は長引きます。 第二の追討使・松平信綱の派遣を知った彼は、一揆方の籠もる原城に総攻撃。 自らも槍を携え突入して、銃弾を受けて討死しました。 幕府方の死傷者は五千三百にものぼり、一揆方は百にも満たない惨敗でした。 辞世にもあるとおり、面子を失った彼が名を残すために討死覚悟での突入だったのでしょう。 |
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