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久々に辞世を
草枯らす 霜また今朝の 日に消えて 報いのほどは ついに免(のが)れず 三好長慶の弟・三好義賢こと実休の辞世です。 彼は、すぐ下の弟・十河一存とともに長兄・長慶を守り立てた知将であり、勇将です。 鬼十河と呼ばれた一存とは違い、風流人でもありました。 兄の信頼を受け、阿波国のほか讃岐・河内などを治めて、三好政権の一翼を担っています。 松永久秀の台頭をこころよく思わず、対立を深めますが、逆に久秀の工作で徐々に長慶の信頼を失います。 そして畠山高政との戦で戦死。 数々の戦場で倒した敵の亡魂を身に受け、死んでゆくのだと観じたのでしょうか? PR |
武将ではありませんが、千利休の辞世
ひっさぐる わが具足の 一つ太刀 今この時ぞ 天になげうつ 茶人とは思えない、力強い辞世です。 利休の本名は納屋与四郎。茶の湯を武野紹オウ(字が出ません)に学び、織田信長に仕え、正親町天皇の勅を奉じて利休居士の名をもらっています。 信長没後は豊臣秀吉の寵愛を受け、秀吉の異父弟・秀長と肩を並べて、豊臣政権をかげで動かすほどの権勢を持っていました。 しかし秀吉の勘気を蒙り、京で切腹の命令が下ります。 そのときの辞世で、唱えたあとに見事に切腹して果てました。 秀吉の勘気の原因は色々な説がありますが、結局、利休は秀吉を成り上がり者として軽蔑の目で見ていたことが、秀吉には我慢ならなかったのでしょうか。 |
三木城主・別所長治の辞世
今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身と思へば 別所長治は、織田信長の麾下に属していながら、所業に不安を感じて毛利氏に通じたことによって秀吉軍に攻められ、「三木の干し殺し」と呼ばれた兵糧攻めによって約二年間の籠城の末に自刃した武将です。二十三歳でした。 城兵は飢えのためまともに戦えず、城内の生き物はすべて食べ尽くし、松の荒皮を剥いで甘肌をなめた。長治はこの惨状を見かね、自分と一族の切腹と引き換えて、城兵を助けてくれるように秀吉に打診します。 その願いが入れられ、自刃するときの辞世です。三木城の本丸跡にこの辞世が書かれた石碑があるそうです。 |
越前守護・朝倉義景の辞世
七転八倒 四十年中 無他無自 四大本空 織田信長に抵抗し、浅井氏・武田氏・本願寺などを糾合して信長包囲網を築きながらも最後は織田勢の追撃にあい、自刃することになった朝倉義景の辞世です。 居城の一乗谷に戻り、縁戚の朝倉景鏡の進言で大野亥山城に移りますが、その景鏡にも裏切られ、共の者も逃げ去りわずか八人となったところで自刃しました。 辞世は「七転八倒して苦しみもだえた四十年の生涯は、自らも無く、他も無く、本来むなしいものであった」という意味です。 鎌倉から続いた名家の最後は、本当にむなしいものでした。 |
織田信長の三男・織田信孝の辞世
昔より 主を内海の 野間ならば やがて報いん 羽柴筑前 主筋にあたる信孝の羽柴筑前守秀吉に対する恨みがこもった辞世です。 秀吉は、信孝と仲の悪かった兄・織田信雄との対立をうまく利用し、信孝を切腹に追い込みました。 この前に、秀吉は信孝の母(つまり信長の側室)と娘を磔にしています。 このようにあからさまに主筋を滅ぼした秀吉は、天下を取ったため、現在では悪人に仕立てるような文献・評価は残っていません。 秀吉にとって信孝は、天下取りに最も危険な人物としてうつっていたのでしょうか? |
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