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徳川家康が誕生した日。
家康は双子だったという説がある。 また、関ヶ原で討死して、それ以降は影武者が家康を演じていたという話もある。 なかなか面白い話がいっぱいの家康の本。 異説を読んでみるのも面白い。 関連リンク→徳川家康の本 PR |
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三方ヶ原の戦いがあった日。
武田信玄は、織田信長包囲網を完成させつつあった浅井・朝倉・三好・本願寺・一向一揆らに加勢するため、同時に上洛を狙い徳川家康の領国である遠江・三河に二万五千の大軍で侵攻した。 これに対して家康は、信長からの援軍三千人を加えて一万で浜松城に籠城。 いくさは家康を無視して浜松城を通過した信玄軍を、家康が追撃することによってはじまった。 最初は押気味だった徳川軍も、次々に新手を繰り出す武田軍に逆襲され、織田の援軍の退却によって総崩れとなった。 家康は討ち死に寸前の危機に何度もあいながらかろうじて浜松城に帰還。そのとき恐怖のあまり脱糞していたという。 またこの教訓を忘れないために、その姿を絵師をもって描かせたともいう。 上総介 戦国書店で戦国本を探す。 |
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戸次川の戦いで長宗我部信親が討死した日。
信親は幼少期から智勇に優れ、人望厚く、将来を嘱望されていたため、父の長宗我部元親に溺愛されていたという。 戸次川の戦いとは、豊臣秀吉の九州征伐の先遣隊として派遣された仙石秀久、長宗我部元親・信親父子、大友義統、十河存保らと島津義弘の弟・島津家久率いる島津勢と間で行なわれた戦いをいう。 耳川の戦いで敗れて急速に衰退した大友宗麟の懇願によって九州征伐を決めた秀吉は、徳川家康の臣従が定まらなかったことにより、まずは四国勢を派遣したわけである。 得意の「釣り野伏」と呼ばれる戦法で豊後・戸次川で待ち受けた島津軍に対して、秀吉の威を借りた軍監・仙石秀久が長宗我部らの反対を押し切り、ほとんど独断的に無謀な渡河作戦を決行。 緒戦は優勢だった秀久軍は深入りしすぎて伏兵に遭い壊滅。第二陣の長宗我部・十河軍が救援におもむいたため助かり遁走した。 しかし長宗我部・十河軍は島津軍に包囲され信親・存保は討死し、元親は落胆のあまり自分も死のうとしたが、家臣の諫で戦わず敗走した。 無謀な作戦をたてながら真っ先に逃亡した秀久は領国に潜んでいたところを引っ立てられ、「三国一の臆病者」と罵られて高野山に追放されたという。 また、十河氏は改易。長宗我部元親は溺愛していた信親の死に狂乱。家督を四男・盛親に譲ることを反対した重臣を誅殺し、二男の親和、三男の親忠を幽閉するなど、元親は暴君へと変貌していったという。 センゴクの主人公と史実は違うのだ。 関連リンク→上総介 戦国書店 |
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本願寺の法主・顕如光佐が逝去した日。
石山において籠城し、織田信長と十年間に渡って戦ったのが本願寺だ。 その間に将軍足利義昭と組んで武田・朝倉・浅井・毛利氏などの反織田勢力と同盟して信長包囲網の構築。 天下布武を目指す信長を散々に悩ませたが、信玄が没し、浅井・朝倉が滅び、毛利氏が海戦で織田家に敗れた後は朝廷を仲介役として和睦。石山本願寺を去って紀伊・鷺森に移った。 晩年は信長に代わって実権を握った豊臣秀吉により大坂の町に移り、更に京都の七条堀川の地に寺地を与えられて、念願の本願寺教団を再興した矢先のことだった。 関連リンク→上総介 戦国書店 |
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大阪の陣(冬の陣)が始まった日。
「君臣豊楽、国家安康」 徳川家康が豊臣家に造営をすすめていた方広寺大仏殿の鐘に刻まれた文字。 豊臣を君主として楽しみ、「家康」の文字を分断するという因縁をつけ開始したことは有名である。 この梵鐘に刻まれた漢語を書いた僧(名前は忘れたが)は、大阪の陣のきっかけとなったことを悔やみ、大阪城に入って落城時に城とともに死んだという。 |
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