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徳川家康が亡くなった日。
家康の死因は、「鯛の天ぷら」にあたったと言われている。 また胃がんであったとも言われる。 家康の晩年は、豊臣家の臣従工作に心を砕いた。 しかし淀殿の感情的な反抗にあって断念。 すると一転、豊臣家を滅亡させるための工作をすすめる。 その過程での謀略をもって、「狸親父」という仇名が現在でも有名だ。 しかし若き頃の家康は、信長と同盟という肩書での臣従を余儀なくされ、信長の度重なる過酷な要請に応え、「律義者」としての名声が高かった。 「律義者」から「狸親父」への分岐点は関ヶ原の戦いにあると思われる。 それゆえ、「影武者家康」説が浮上し、戦国小説を面白くしているのだ。 徳川家康が主人公の本 関連リンク→上総介 戦国書店 PR |
武田勝頼が甲斐の恵林寺で父武田信玄の葬儀を盛大に行った日。
法名は恵林寺殿機山玄公大居士。 信玄が実際に死んだのは、天正元年(1573年)の四月十二日。 葬儀の約3年前だったが、近隣諸将には知れ渡っていたと思われる。 信玄の最大のライバル・上杉謙信は、信玄没するとの報を中食の最中に受け、思わず湯漬けの箸を捨て、飯を吐き出し 「さてさて残り多き大将を殺したるものかな。英雄、人傑とは、この信玄をこそ言うのであろう。関東の弓矢、柱をなくし惜しきことだ」 と涙をはらはら流したという。 |
武田勝頼が自刃し、甲斐武田家が滅亡した日。
長篠の戦い以来、次第に勢力が衰退してきた武田勝頼は、織田信長に寝返った一門衆・木曽義昌攻めに出陣。 これを助けるため、信長は嫡男・織田信忠を大将とした織田・徳川連合軍が信濃へ侵攻。 この報を受けた家臣団が徐々に逃亡し、未完成の新府城に火をかけて小山田信茂の居城・岩殿城に向けて落ちた。 このとき、真田昌幸の岩櫃城へ落ちることを決めていたが、直前に寵臣の言を受け、岩殿城へ変更した。 しかし岩殿城への途上で小山田の裏切りを知り、その後滝川一益の追手に捕捉され、嫡男の信勝や正室の北条夫人とともに自害した。 武田家滅亡の直後に本能寺の変があったことを考えると、真田昌幸の岩櫃城へ落ち、一年ぐらい籠城したら勝頼の運命も変わったかもしれない。 |
上杉謙信が誕生した日。
越後守護代長尾為景の末子として生まれた景虎は、長兄・晴景から家督を譲られ春日山城主となり、越後国主、関東管領職と上杉姓を得たのちに出家して上杉謙信となった。 名前の変遷をたどると 幼名:長尾虎千代→元服後:長尾喜平次虎景→長尾景虎→上杉景虎→上杉輝虎→上杉不職庵謙信 となる。 関連リンク→上総介 戦国書店 |
播磨・三木城が落城し、別所長治夫妻が自刃した日。
別所長治は、織田信長の麾下に属していながら毛利氏に通じ、そのことから秀吉軍に攻められ、「三木の干し殺し」と呼ばれた兵糧攻めによって約二年間の籠城の末に自刃した武将。享年二十三歳。 彼は城兵の助命を条件に潔く自刃したが、長治の叔父・別所賀相は、毛利につくことを主張し、別所氏を滅亡に導いた張本人でありながら、落城の際に、櫓に火をつけて己のみ助かろうとして家臣に討ち果たされた人物。 それに比べ、賀相の妻は潔く、良人の醜い死際を知っても乱れず騒がず、長治夫妻が自刃するのを見届けると、男女三人の幼な子をと自分の喉を突いて自害したという。 別所長治の辞世 今はただ 恨みもあらじ 諸人の いのちにかはる 我身と思へば 別所長治の妻の辞世 もろともに 消えはつるこそ うれしけれ おくれ先だつ 習ひなる世を 別所賀相の妻の辞世 のちの世の 道もまよはじ いとし子を 我が身にそへて 行くすゑの空 |
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