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備中・高松城主・清水宗治の辞世
浮世をば 今こそわたれ 武士(もののふ)の 名を高松の 苔に残して 清水宗治が羽柴秀吉軍に居城を囲まれ、天守閣が水没するほどの水攻めにあって、城兵を助けるために降伏し、自刃したのは天正十年六月四日。 本能寺の変があった二日後であった。 秀吉の備中攻めが行われる前、毛利家の小早川隆景が備中国境に城をもつ七人の城主を備後・三原城に集め、決意を固めさせた。 半独立して毛利家の傘下に入っていた彼らに隆景は 「織田からいずれ味方に引き入れようと諜略があるだろう。もし織田方につこうとするならば、当家としてはかまわない。それへつかれよ」 といった。 律義者ぞろいの彼らは 「情けなきお言葉。我ら小城ながら防ぎとめ、一命を毛利家にささげること言うに及ばず。勝利のあかつきにはふたたび三島城に集まり、勝利の酒肴を頂戴したいものでござる」 と口々にいった。 しかし宗治は、 「拙者はそうは思わぬ。秀吉は山陽道にあふれるような人数で攻めてくるだろう。拙者の小城で防ぎきることは不可能であり、ついに防ぎきれぬときには城を枕に討死し、多年の御恩に報いるつもりである」 といった。 隆景はその言葉に感動し、 「もしそのときには御一子を取立て、百世の後までお守りつかまつる」 といったという。 事実、毛利家ではこの約束を守り、清水家を幕末までの三百数十年間、一門待遇とした。 「中国者の律義」の典型的な武将であった。 PR |
大阪の陣で有名となった豪傑・塙団右衛門の辞世
中夏依南方 留命数既群 一生皆一夢 鉄牛五十年 団右衛門は大阪夏の陣で岡部大学と騎馬での先陣争いを行い、岡部を振り切って単騎敵陣・浅野家の中に突っ込み討死したという。 団右衛門は敵の士卒二十人ばかりを槍で突き伏せたとき、矢で射られて落馬。その時にわき腹に槍を突き入れられ死にのぞんだとき、敵を手で制しつつ小指を食い破って血を出し、懐紙にこの詩を書いたという。 この詩の「留命数既群」の句は、浅野家代々の儒者でも読めない句だったらしい。 |
久しぶりに武将の辞世を掲載する。
諏訪惣領家の当主・諏訪頼重の辞世。 おのずから 枯れ果てにけり 草の葉の 主あらばこそ またも結ばめ 頼重は武田信虎の娘を娶っているので、武田晴信(信玄)とは義兄弟となる。 しかし信虎ら晴信によって今川家に追放されると、突然武田軍に攻められ、降伏して甲府に蟄居させられた。 義兄に殺されるとは考えていなかった頼重は、武田家の自害するよう口上があったことに激怒。 脇差で腹を十文字に掻き切り、更に脇差を右の乳の下に突き入れ、天目茶碗ほどの肉をえぐり出し、そのままどうと、後ろにのけぞり倒れたといわれる。 ときに二十七歳の壮絶きわまる死に様であった。 ちなみに頼重の娘(諏訪御寮人)と晴信との間に生まれた子が武田勝頼である。 |
別所長治の辞世は以前に掲載したが、今読んでる本にその妻の辞世と叔父の賀相の妻の辞世が載っていたので紹介。
別所長治の妻の辞世 もろともに 消えはつるこそ うれしけれ おくれ先だつ 習ひなる世を 別所賀相の妻の辞世 のちの世の 道もまよはじ いとし子を 我が身にそへて 行くすゑの空 長治の叔父・別所賀相は、毛利につくことを主張し、別所氏を滅亡に導いた張本人でありながら、二年の籠城の末に別所一族が自刃する際に、櫓に火をつけて己のみ助かろうとして家臣に討ち果たされた人物。 それに比べて賀相の妻は潔く、良人の醜い死際を知っても乱れず騒がず、長治夫妻が自刃するのを見届けると、男女三人の幼な子をと自分の喉を突いて自害したという。 |
久しぶりに武将の辞世を掲載。
十三代足利将軍義輝の辞世。 五月雨は 露か涙か ほととぎす わが名をあげよ 雲の上まで 彼は永禄の大逆で、松永久秀に御所を襲われ、抜刀して奮戦したが敗れて殺された将軍。 剣聖・上泉伊勢守信綱から新陰流を学び、「剣豪将軍」と言われたほどの腕前で、名刀を畳に突き刺し、敵を斬りまくり、刀が切れなくなると取り替えながら奮戦。 最後は襖数枚で押さえ込まれ、その上から槍で衝かれて死んだといわれる。 歴代足利将軍の中で殺されたのは、この義輝と嘉吉の乱で赤松満祐に殺された足利義教のみだ。 |
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