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ご存知、本能寺の変が起こり、織田信長が死亡した日。
信長は今年で424歳になるはずだった(笑) 京都の本能寺では織田信長をしのぶ「信長まつり」が6月3日から4日まで行われる。 福井県越前町織田の明神ばやし、日本舞踊の披露、信長や秀吉らにふんして練るパレードなどが開催予定。 本能寺の本堂では信長の法要も営まれるようだ。 織田の明神ばやしなど披露 本能寺で「信長まつり」(京都新聞) ちなみにここ最近、武将の供養が各地で行われている新聞記事が多い。 墓所で没後420年祭 徳島藩主の祖・蜂須賀正勝、19代当主も参列(徳島新聞) 結城秀康悼み供養祭(日刊県民福井) ブームなのか? PR |
松永久秀と三好三人衆が、将軍・足利義輝を暗殺した日(永禄の大逆)
足利幕府十三代将軍の義輝は、剣聖・上泉伊勢守信綱から新陰流を学び、塚原卜伝に奥義の伝授を受けた「剣豪将軍」と言われるほどの人物だった。 御所で松永・三好勢に襲われたとき、数々の名刀を抜いて畳に刺し、抜刀して敵を斬りまくり、斬れ味が落ちると刀を変えて戦ったという。 阿修羅のような義輝に怯んだ松永・三好勢は、四方から障子をかぶせて押し倒し、その上から刺し殺したといわれる。 享年二十九歳。 辞世の句は 「五月雨は 露か涙か 不如帰 我が名をあげよ 雲の上まで」 関連リンク→上総介 戦国書店 ↓クリックお願いします。 |
毛利勝永が豊臣秀頼とともに自害した日。 毛利勝永は豊臣家の譜代の家臣で「黄母衣衆」の一人・毛利吉成の子。 尾張出身で森蘭丸の一族ともいわれる。 元々森姓だったが、秀吉の命で毛利姓に変更した。 慶長の役で初陣して加藤清正が籠城した蔚山城に救援に向かい、父と共に勇戦奮闘。 清正が勝永のはたらきぶりに瞠目し、ぜひとも養子にとしきりに願ったが、吉成も大切な跡継ぎだったためまとまらなかったという。 とても温厚な人物であり義理堅く、境遇は真田幸村と似たところがある。 それでいて戦になると戦上手で激戦を展開し、大阪の陣でも目覚しい戦功をあげている。しかしいかにも地味な人物だ。 ↓クリックお願いします。 関連リンク→上総介 戦国書店 |
賤ヶ岳の戦いがあった日
織田信長が没し、明智光秀を討った羽柴秀吉が、織田家の重臣・柴田勝家と戦って勝家を敗走させた戦いだ。 この勝利によって、秀吉は天下人としての地位をほぼ確立したといえる。 勝家方は前田利家・佐久間盛政など3万を率いて近江・柳ヶ瀬に着陣。一方の秀吉は5万の軍勢を木ノ本に布陣した。 そのままこう着状態が続き、一部の軍勢を率いて織田信孝の挙兵を鎮圧に向かった秀吉の行動によって均衡が崩れる。 佐久間盛政が突出し中川清秀を討ち取って大岩山砦を占領。そのまま対陣していたところに、秀吉の軍勢が大返しして殺到。盛政隊と激戦を繰り広げる中、戦線に加わらなかった前田利家が退却。そのため盛政隊は壊滅し、勝家軍は総崩れとなって北ノ庄に退却した。 この戦いでのキーマンは佐久間盛政。 この戦いで捕らえられた盛政は筋金入りの秀吉嫌いだった。当然殺されると思われていたが、秀吉は「助けたい」と言って諸将を驚かせたという。 また命を助けるだけでなく、 「九州を平定した場合に肥後一国を与えたい」 と秀吉は言い、蜂須賀家政に説得させたが、 「自分は勝家の家臣であり、勝家が滅んだ以上、自分ひとりが生きていても甲斐がない。天下をくれてやると言われても断る。肥後をやるというが、もしかりにそのようなことになったら肥後を根城に九州を平らげ、上方に攻め上り、秀吉を討って憂さを晴らそうとするであろう。いずれにせよ双方にとって無用のことだ」 とことわれた。秀吉はあきらめ 「されば切腹させよ」 と命じた。普通なら斬首が慣例であり、切腹という措置は異例の厚遇だったようだ。 しかしこれに対しても盛政は蹴り、 「自分には斬首こそ望ましい。願わくばこの身に縄をかけ、檻車に乗せ、天下第一の罪人として京を引き回してもらいたい。それが望みである」 といった。 秀吉は承知せざるをえなかった。 引き回しのが行われる日、檻車が一条の辻を出発するとき、盛政は刑士に 「縛り方が足りぬ。高手も小手もすきまなく縛り上げよ」 と命じたという。 徹底した秀吉嫌いだったのがこのエピソードからもわかる。 佐久間盛政が主人公の本 関連リンク→上総介 戦国書店 |
斎藤道三が嫡男・斎藤義龍に敗れ戦死した日。
斎藤道三は美濃国を守護・土岐氏から盗ったことで有名な戦国梟雄で、下克上の最初の一人といわれている。 道三は主君・土岐頼芸の側室であった深芳野を下げ渡されて妻とし、その翌年に義龍を生まれため、頼芸の落胤であったといわれ、これが親子相克につながったというのが通説である。 一方で、義龍は稲葉伊予守良通(稲葉一鉄)の妹(姉)が道三の妻となって生んだ子だという説もある。彼女は身の丈六尺の絶世の美女であったという。 義龍は身長六尺四・五寸でひざの長さが一尺二寸の大男だったというから、稲葉氏の子であったというのが妥当なのかもしれない。 ではなぜ親子戦争を始めてしまったのか? これを考えるとやはり頼芸と深芳野の子であったという説が有力になるのだが。 このあたりの関係を想像しながら斎藤道三が主人公となっている小説を読むのも面白いだろう。 斎藤道三が主人公の本 関連リンク→上総介 戦国書店 |
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