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本能寺の変が起こり、織田信長が死亡した日。
いまだに真相がわからず、謎の多い事件であり、日本史の中で最も有名な出来事でしょう。 明智光秀の決起の真相。 代表的な説は、 1.肉体的・精神的な恥辱による怨み 2.信長から捨て殺される不安 3.ライバル秀吉に追い越される焦り 4.家たちの意向を受けて 5.自ら天下を狙った 6.ノイローゼ的反抗 などがある。 「川角太閤記」「総見記」などの文献に、様々な信長による光秀への仕打ちが書かれているのでこのような説が出ているのだろう。 その他に異説もある。 ・バテレンの爆殺 ・徳川家康と共謀した斎藤利三の反乱 などがそれである。 斎藤利三の娘・お福は春日局で、三代将軍家光の乳母であり、お福の息子・稲葉正勝は家光の小姓となっている。 反逆者の一人であった斎藤利三の子孫がこのような待遇を受けるのは、何かがあったと考えるのが妥当なのではないだろうか。 【本能寺の変関連ニュース】 10年ぶり 信長"復活" 本能寺で「まつり」(京都新聞) 武者行列に新機軸 安土町 5日に「あづち信長まつり」(京都新聞) PR |
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長篠の戦いがあった日。
長篠の戦いに至る経緯は、そもそもは徳川家康の家臣・大賀弥四郎が武田勝頼に寝返り、岡崎の徳川信康を殺害して城を乗っ取る話を持ちかけられたことからはじまる。 勝頼はこの話に乗り一万五千の軍を率いて出陣。三河・作手まで進出したが、大賀の企みは露見して処刑されていた。 無駄足を踏んだ勝頼は、奥平信昌が五百の兵で籠もる長篠城攻撃に方針変更。総攻撃を行い、長篠城は本丸を残して兵糧倉まで武田軍に占領・包囲された。 このとき城を抜け出し、徳川家康に後詰の援軍を仰ぐ使者として向かったのが鳥居強右衛門である。 家康の要請で岡崎に救援におもむいていた織田信長と家康は、長篠城救援のために出陣。慎重に行動して長篠城にほど近い設楽原に陣を構え、そして馬防柵を打ち立てた。 これを見た勝頼は宿将たちの反対意見を退け、織田徳川連合軍に決戦を挑む命令を下した。 五月二十一日の朝、武田軍の山県・小山田・小幡・内藤・原の部隊が得意の騎馬集団で突っ込み、織田・徳川軍の三千挺の鉄砲の一斉射撃で打ち倒され、主な武将が討死する。 この機に織田・徳川軍が追撃に移り、馬場信春が退路を守って討死する中、勝頼はわずか数人の従者に守られ甲斐に退却した。 長篠の戦いに関する本はこちら □戦史ドキュメント 長篠の戦い □徹底検証 長篠・設楽原の戦い □長篠の戦い |
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桶狭間の戦いがあり、今川義元が織田信長の軍勢によって討ち取られた日である。
これにより、尾張の小名であった信長は世に知られ、足利将軍家と縁戚になる今川家の没落が始まる。 信長の引き立て役になった義元だが、これを見直す動きがあるらしい。 毎日新聞記事 つれづれに静岡:今川義元を見直そう /静岡 信長が主人公の脇役になり、あまり主人公となっている本がないので、名前意外はよく知られていない武将なので、興味のある方は以下の本が参考になるでしょう。 今川義元の登場する本 ■戦国幻野 □今川義元のすべて □義元謀殺 □今川義元―自分の力量を以て国の法度を申付く □戦史ドキュメント 桶狭間の戦い |
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大阪夏の陣によって大阪城が落城し、豊臣秀頼が自害した日。
大阪夏の陣は、前年の冬の陣の和睦後に、徳川方が約束違反で内堀まで埋め、更に豊臣方に強硬な恭順案を出されたことに対する反発から開戦に至った戦い。 秀頼は太閤秀吉の子で、母は浅井長政と お市の長女・淀殿。 自害したときは23歳だった。 彼はあまり前面に出ていないためか、どのような人物だったのかわからないようで、暗愚であったとか、立ち振る舞いが立派であったとか、様々な説がある。 本当のところはどうだったのだろうか? 豊臣秀頼が主人公の本は以下のとおり。 ■密室大坂城 □運命峠 □城塞 □月の人豊臣秀頼 □氷の城 □忍法水滸伝 |
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