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豊臣秀次が自刃した日。
関白・秀次は豊臣秀吉の姉・ともの子。 子がなった秀吉の後継者として関白を譲られた。 しかし、その後に秀頼が生まれたため、秀吉からの圧力により高野山へ追放。 直後に自刃となった。 秀次は”殺生関白”と言われ罪のない人々を殺したり、秀吉に対して謀反を企てたといわれている。 一方で、武力と学識にすぐれ、近江八幡発展の足がかりとなった治世を行ったともいわれる。 どちらが本当の秀次なのか、今となってはわからない。 秀次を題材とした小説で想像しよう。 PR |
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豊臣秀吉の小田原攻めにより小田原城が落城し、北条氏政・氏照が自刃した日。
氏政は北条氏康の嫡男、氏照は次男。 二人ともに豊臣家との戦争推進派であったため、責任を取っての自刃である。 当主・氏直(氏政の嫡男)は、徳川家康の娘を娶っていたため自刃は免れ高野山へ追放された。 ![]() ↑北条氏政と氏照の墓(小田原駅の商店街脇にある) |
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加藤清正が生まれた日。
しかも、清正が亡くなった日も慶長十六年(1611年)七月二十四日であった。 誕生日に亡くなったという珍しい人物だ。 彼を題材とした小説では、若かりしころの猪武者的な描かれ方と晩年に豊臣家の存続を願い、徳川幕府と良好な関係を築きつつ、毅然と振舞った智将という描かれ方がある。 前者は石田三成を主人公として、その対極的な描かれ方。そして後者は豊臣秀頼の母・淀殿を描くときに、豊臣恩顧の大名の代表として描かれる。 一生を通しての清正を描く場合、若年から晩年へ向けて成長していく様をスムーズに描くのが著者の見せ所だろう。 皆さんは、どんな清正がお好みですか? 加藤清正が登場する本の紹介 |
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羽柴秀吉と明智光秀の戦いである「山崎の合戦」があった日。
この戦いから秀吉が天下統一に驀進するわけだが、この出来事により、いくつかのことわざが生まれている。 「天王山」 山崎の合戦が天下を決める戦いとなった。戦いでは天王山を取ることが地形上有利であったため、この地の奪い合いとなり、最終的に天王山を抑えた秀吉方が勝ったことから、勝敗や運命の重大な分かれ目のことを言う。 「洞ヶ峠を決め込む」 筒井順慶が光秀に従って山崎にほど近い洞ヶ峠に出陣したが、光秀の形勢が悪くなると布陣したまま動かず、秀吉方が優勢となると敗走する光秀方に追い討ちをかけたことから、日和見することを言う。 「三日天下」 光秀が信長を倒してから、この戦いで秀吉に敗れるまで、僅かな期間しか天下を取れなかったことから、短い期間だけ権力を握ることを言う。 |
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真田幸村の父・真田昌幸が亡くなった日。
真幸は徳川家康を恐怖せしめた智謀の将だ。 なぜなら、信州・上田城で徳川の大軍を二度までも撃退したためである。 最初は天正十三年、鳥居元忠や大久保忠世ら八千の兵に包囲されながらも、十分に敵を引きつけてから銃撃し、混乱するところを伏兵によって奇襲して壊滅させた。 二度目は徳川秀忠を総大将とした三万八千の軍が関ヶ原の決戦の地に向かうとき、この大軍を引き止めるための真幸による作戦にのせられて上田城を攻め、同じような作戦で徳川軍を翻弄。 秀忠は上田城を落とせないばかりか十日間を空費し、関ヶ原に間に合わないという恥を天下にさらした。 戦後は、子の信之の懇願により死罪は免れたが紀州・九度山に蟄居し、十一年後に病死することになる。 大阪の陣まで生きて入城していれば、真幸・幸村コンビが三度目の徳川軍撃退をしていたかもしれない。 |
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