忍者ブログ
  • 2025.02«
  • 1
  • 2
  • 3
  • 4
  • 5
  • 6
  • 7
  • 8
  • 9
  • 10
  • 11
  • 12
  • 13
  • 14
  • 15
  • 16
  • 17
  • 18
  • 19
  • 20
  • 21
  • 22
  • 23
  • 24
  • 25
  • 26
  • 27
  • 28
  • 29
  • 30
  • 31
  • » 2025.04
[PR]
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

【2025/03/04 01:46 】 |
永禄十年(1567年)・文禄二年(1593年)八月三日は
永禄十年(1567年)八月三日は伊達政宗が誕生した日
文禄二年(1593年)八月三日は豊臣秀頼が誕生した日

彼らは二十六歳違いだ。
たまたま誕生日が同じだった彼らの接点はあまりよくわからない。
推測するに小田原攻めに遅参したため、所領を減らされた政宗にとって豊臣秀吉に対しては、内心快く思っていなかっただろうし、その子秀頼に対しても特別な感情はなかったろう。
PR
【2005/08/03 23:22 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
天正十四年(1586年)七月二十七日は
岩屋城の戦いで高橋紹運が討死した日。

紹運は大友宗麟の家臣で吉弘鎮種と称していたが、岩屋城主・高橋鑑種が宗麟に叛き追放されたあとに高橋家を継いだ。
実は彼は立花宗茂の実父で、立花道雪から懇願されて嫡男・統虎を養子に出した。

岩屋城の戦いは、島津忠長率いる六万の大軍が筑前・岩屋城を攻めた戦い。
島津氏の圧迫により宗麟が秀吉に請い、九州征伐が開始されようとしているときであったため、島津軍としては少しでも征服地を増やしたいところ。
七百の兵で籠もった紹運は降伏を勧められるが拒否。城に籠もって八十倍の島津忠長軍を迎え撃ち、半年持ちこたえて一兵残らず討死した。
敵将・忠長は、紹運の御首を抱いて
「おはん神か人か。日の本一の武者ぶりでごわしたぞ」
と泣いたという。
(「戦国挽歌 高橋紹運」より)

この戦いで島津軍の損害は十倍の七千人。
島津氏の破竹の勢いが止まった。

この後、島津軍は立花宗茂の籠もる立花城を攻めるが、九州征伐の第一陣が到着し、退却することになる。

そう、紹運は実子の捨石となったのだった。
【2005/07/27 20:37 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
慶長五年(1600年)七月二十五日は
小山の軍議が開かれた日。

会津・上杉家討伐に出陣した大老・徳川家康の軍が下総小山に到着したとき、石田三成が家康討伐の兵をあげたという情報を得たため、同行してきた諸将を集めて開いた軍議をいう。

軍議は三成が豊臣秀頼を担ぎ出したたことと、大阪に妻子を置いている大名が多かったため、腹の探り合いで空気は重くなった。
これを打開するため、家康は諸将に
「三成に味方する者は即刻陣を払い国に帰り籠城の支度をせよ」
と行った。
そのとき福島正則が
「今さら治部めの一味つかまつる筋目はござらぬ。妻子が串刺しになろうとも三成を討つ。ソレガシ先陣をうけたまわる所存でござる」
と言ったため、諸将があらそって同様の旨を申し出て、その場の空気は一変したという話は有名だ。

この一言が豊臣恩顧の大名を家康の家来にしたと言ってもいいすぎではないだろう。

色々なエピソード満載の福島正則の登場する本はこちら
【2005/07/25 23:18 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
天正十八年(1590年)七月十六日は
石田三成が攻めた武蔵・忍城が開城した日。


三成の軍は約三万。一方、忍城は城主・成田氏長が小田原に籠城していたため、約三百騎と女・子供・老人ばかり。

しかし沼地に浮いた形の忍城までは、いくつもの橋を渡らなくてはならず多くの軍勢をもっても攻めずらい地形であったので、容易に落ちなかった。
そこで三成は水攻めを敢行。
だが大雨が降って堤が決壊し、三成軍は、本陣もろとも流されてしまった。
その後浅野長政や真田昌幸・幸村父子を投入するも落ちず、小田原城に籠もっていた成田氏長が開城するよう書状を出したことにより、やっと開城となったのだ。

忍城の攻防を描いた作品

水の城―いまだ落城せず

はお勧めです。
【2005/07/16 23:13 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(0) | トラックバック()
寛永元年(1624年)七月十三日は
福島正則が没した日。

無断築城により安芸・備後四十九万八千石を改易され、信州・川中島高井野邑で没した。

正則は加藤清正と並んで、豊臣秀吉恩顧の大名。
清正に比べて猪武者的なところがあり、若い頃は狂人じみた振舞いも多かったという。

そんなエピソードをひとつ。
海路領国に帰るとき、大酔いして寝ていた正則が、家法として上陸の際に小者が麻服を綿服に着替えることに定めていたため、気に入りの側役・柘植清右衛門がそばに居ると思い込み
「木綿に着替えることを命じよ」
と言い、そのままうとうとした。
その時、清右衛門はそばに居ず、正則の命令を聞いていなかった。
やがて目が覚めてみると、小者は誰も木綿を着ていないので、おのれ清右衛門っ!と怒鳴り、なぜ申したとおりにせぬ、命に背く気か、とわめいたところ、清右衛門は
「その御命令、聞いておりませぬ」
と言ったので
「主の言葉に逆らうのか、死ね、死ねなぬか。皆も聞け、清右衛門の首を見ずば、わしは船から上がらぬぞ」
と言い、家老がなだめても聞かず、大騒ぎになった。
清右衛門は、自分ひとりの為にかかる騒ぎになるのは相済まぬといい、町家にあがって切腹した。
家老がその首を持ってくると正則の機嫌が直り、そのまま高いびきをかいて一睡したあと目覚めてから
「清右衛門はあるか」
と呼んだ。
家老たちが先ほどの始末を言上すると「うそだ」と信じず、首を見せると肝をつぶし、首にすがって泣いたという。
(司馬遼太郎著「おれは権現」より)

背筋が寒くなるような狂人ぶりだ。
【2005/07/13 22:28 】 | 今日は何の日 | 有り難いご意見(2) | トラックバック()
前ページ | ホーム | 次ページ

忍者ブログ [PR]