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第四回の川中島の戦いがあった日です。
川中島の戦いは、武田信玄と上杉謙信の戦いとして有名ですが、実は全部で五回行われています。 特に有名なのは信玄と謙信の一騎打ちですが、これは四回目の川中島の戦いです。 両軍の主力が激突したこの戦いは、前半で武田軍の戦法の失敗により、信玄の弟・信繁や山本勘助が討死。 武田軍別働隊が到着した後半では上杉軍が敗走し、痛み分けの結果となっています。 信玄と謙信の一騎打ちでは、謙信が自ら信玄の本陣に斬り込み、信玄に三度斬りつけ、信玄はそれを軍配団扇で受け止めたと言われています。 上杉謙信・武田信玄が登場する本は「上総介戦国書店」でご覧ください。 PR |
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九戸政実の乱が平定された日です。
九戸政実は、小田原・北条氏が滅ぼされた後も、豊臣秀吉に抵抗した最後の武将です。 九戸氏は南部氏の庶流ですが、当時は主家をも凌ぐ勢いだったようです。 南部氏の当主・信直はいち早く秀吉に臣従。 そのため政実は反乱を起こしました。 城兵五千で立て籠もった政実に対し、豊臣軍は蒲生氏郷ら六万五千で包囲。 しかし包囲軍を散々に悩ませたのち、浅野長政の降伏勧告を受け入れ開城しました。 剃髪して城を出た政実は、豊臣秀次の本陣で斬首されることとなります。 城主の降伏で助けられるはずだった城兵・女・子供まで皆殺しとなりました。 この乱を裏で糸を引いていたのは伊達政宗だといわれています。 九戸政実が登場する本は ■天を衝く |
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浅井長政の小谷城が織田信長によって攻められ落城した日です。
信長の妹・お市を妻として同盟していた長政は、信長の朝倉攻めの最中に突然同盟を破棄。 朝倉を攻めていた織田軍の後方から挟み撃ちをする動きを見せます。 信長は命からがら京に逃げ帰ったといわれます。 その後の姉川の戦いで織田・徳川連合軍と戦った浅井・朝倉連合軍は敗戦。 一時は足利義昭の呼びかけにより、浅井・朝倉・本願寺・武田の信長包囲網を築きますが、信玄の死により崩壊。 再度信長は朝倉を攻め、一乗谷城が落とすと、その勢いをかって小谷城を攻めました。 京極丸に籠もった父・久政は自刃。京極丸と連絡を絶たれていた長政は、父の助命を条件に、お市と三人の娘を信長のもとに送り、降伏のため城を出ます。 しかし父の自刃を知り、家老・赤尾美作守の宿所で再度抗戦して自刃しました。 浅井長政が信長の同盟者のまま本能寺の変が起こったとしたら、秀吉や家康の天下はあったのでしょうか? 結構面白いシュミレーション本ができるのではないかと思います。 浅井長政が登場する本は ■死して残せよ虎の皮 ■浅井長政 □浅井長政の決断 □浅井長政 信長に反旗を翻した勇将 □修羅剣魂 ■幻の観音寺城 (脇役) 主人公:六角義賢 |
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山内一豊が土佐・高知城に入城した日です。
再来年(平成18年)の大河ドラマは司馬遼太郎氏の「功名が辻」に決まりました。 一豊はそれほど有名な武将ではありませんが、妻の千代が戦国の代表的な賢夫人として有名です。 最も有名な話は、一豊が織田信長に仕えていた頃、千代が自らの蓄えで夫のために名馬を購入。その名馬が信長の目にとまって出世したということですが、「功名が辻」にも書いてありましたが、このお話は眉唾物ということです。 それよりも、関ケ原のとき、西軍からの密書を封を切らずに一豊に送り、一豊は家康にそのまま差し出し、多大な信頼を得たというエピソードがあります。 賢夫人としての評価を後世に残すこととなったのは、この一件ではないかと思われます。 山内一豊が登場する本は ■功名が辻 □風の峠 武将山内一豊の妻千代 □山内一豊 運を呼びこむ生き方 |
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毛利元就が毛利家の当主として郡山城に入城した日です。
元就は次男ですが、兄・興元が若くして亡くなり、兄の遺児・幸松丸が当主となりましたが、病弱で幼くして亡くなり、毛利宗家の当主となったわけです。 家督相続はすんなりいったわけではなく、尼子家の後ろ盾もあった異母弟・相合元網を担ぐ者も多かったといいます。 しかし重臣の志道広良がすばやく動き、元就を相続者として入城を請う起請文に重臣らを署名させて実現させました。 元就は、家督相続後に家中の分裂を恐れて、元網を註殺しました。 謀略を得意としたといわれる元就なので、幸松丸の死も怪しいものです。 毛利元就が登場する本は「上総介戦国書店」でご覧ください。 |
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